【今週のみ言】真のなる食口の道 天一国元年天暦8月25日(陽暦9月29日)第31号の


今日皆さんが食口という言葉を使っていますが、その言葉は実に恐ろしい言葉です。もし皆さんが信仰路程で誤れば、イエス様が神様のみ旨を証したその立場を遮る怨讐になるのです。イエス様がサタンと闘われた立場を遮る怨讐になり、十字架に行き人類を贖罪なさろうとしたそのみ旨を遮る怨讐になるというのです。
 ではどのような人がイエス様の食口なのでしょうか? それはすべての人にみ言を伝えてあげたかったイエス様に似た人であり、イエス様がサタンと闘われるときご苦労されながら憂い心配し嘆息したそのすべての心情を体恤できる人であることでしょう。それゆえ、イエス様が十字架の道を行かれるときにただついていくだけの人はイエス様の食口ではなく、十字架の道に進んでいくときまでのその心情を知ることのできる人がイエス様の食口だということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
 そして皆さんは、イエス様がこの地に来られて三十余年の生涯の路程で真なる証し人の使命を帯びて現れたとき、ご自身を代身して証しする真なる食口を持つことができず、サタンと闘う場においてともに闘ってあげることのできる食口、ゴルゴタの十字架を負って進む道においてともに行ってあげられる真なる食口、さらに天と地の前に誇れる真なる食口を持てなかったのが、最も大きなイエス様の切なさだったということを知らなければなりません。

皆さんはまたイスラエル民族を代身して生きた祭物になるだけでなく、二千年前のイエス様の心情に通じることができ、イエス様の人格を備えることのできる人にならなければなりません。皆さんはサタンの前に屈伏する死んだ祭物になってはならないというのです。イエス様の心情に徹して神様のみ旨を証ししてから落胆してはならないし、サタンと闘って敗北する人になってもいけないというのです。
 それゆえ、終わりの日に身を置く皆さんは、死の峠を踏んで立ち、怨讐を神様の愛の懐に導こうという悲壮な覚悟と心情を備えた人になってこそ、イエス様の真なる食口になりうるのです。

それでは、イエス様が神様のこの上なく大きなみ旨を代行して進まれるときに、だれがイエス様の心を悲しませたのでしょうか? イエス様と最も近い人々がイエス様の心を悲しませました。準備されたイスラエルの民が反対したのが悲しみではなく、ユダヤ教徒が反対するのが悲しみではなかったというのです。三年間も従った弟子、その愛する弟子たちが信じるべきときに信じることができず、死ぬべきときに死ねなかったその一つの事実がイエス様に最も大きい悲しみとなったのです。これを皆さんがはっきり知るようお願いします。
 では、皆さんがどうすれば天の真なる食口だと言えるでしょうか? まず皆さん各自の心が一つの心に和合して動いていかなければなりません。そうして、一つの目標(み旨)に向けて闘おうとしなければならず、またその一つのみ旨、すなわち神様のみ旨を成就するために死を覚悟して進もうとする人にならなければなりません。またイエス様が二千年前にこの地上に来られ、天のみ旨をすべて成せずに亡くなられたことによって結ばれたその怨恨を解いてあげ、慰労してあげる人にならなければならないというのです。このようなすべてのことを成すときに、皆さんを天の真なる食口と言うことができるということを肝に命じるようお願いします。
 では、今日自分の信仰路程で何を持つ人になるべきでしょうか? 皆さんは真なる食口を持つ人にならなければなりません。皆さんが家庭に帰ればその家庭で真なる食口を持たなければならず、教会に行けば教会でも真なる食口を持たなければならず、社会に出ればその社会でも真なる食口を持たなければならないというのです。
 また皆さんはイエス様が神様を代身して証しし、神様を代身してサタンと闘いつつ神様を代身して亡くなられたのと同様に、そのようなイエス様のために (1)証さなければならず、イエス様のために (2)闘わなければならず、イエス様のために (3)死ねなければなりません。(一九五七・一〇・一八、前本部教会)

今日統一教会の教会員たちが祈祷するとき「ああ! 私たちは六千年の歴史的な結実体です」と祈祷するでしょう? 六千年の歴史の結実体なら、良い先祖の津液(=生物体内からしみ出る液)も悪い先祖の津液も影響しているでしょう? ですから、そのような実体自体はそのような影響を必ず受けるようになっているというのです。それゆえ、皆さんの心霊状態が均等でないのは、そのような霊的な善なる先祖と悪なる先祖の結実体だからです。
 それゆえ、今のときは、この位置は堕落しましたが、全体の歴史において悪いことも良いことも全部ここで交差されるのです。交差するのにどうすべきかと言えば、良いものは刈り入れ、悪いものは捨てなければなりません。何の話か分かりますか? 今のときは良いものは全部刈り入れ、悪いものはすべて捨てるというのです。(一九七一・一一・二八、前本部教会)

 数多くの人たちが神様のみ旨を賛美しますが、私たちは神様が苦労された功を賛美しなければなりません。同じく、私の一切を忘れてしまい、神様による私の感情と生活全体にならなければなりません。どうすれば一時的でない永遠な因縁で残れるのかという問題を中心に、自己の生活を秤りにかけながら生きなければならないということを忘れてはいけません。
 真なる生活は真なる一日から始まり、真なる一日は真なる瞬間から始まります。それにより、真なる瞬間のような一日、真なる瞬間のような一年、真なる瞬間のような一生をどのように継続していくのか、ということが皆さんの生涯に残された課業です。
 ある者は自分勝手に「こうして生きるのが私の一生だ」といいながら、一時しかない青春時代をむなしく流し送ってしまいます。そのような生活は大変ありふれた生活です。そのような人はサタンも嫌います。サタンも嫌うことを神様が好む訳がありますか? サタンもうらやましがり、神様もうらやましがる生活をするなら残ります。(一九六九・一〇・一九、大邱教会)
 それゆえ、真なる生涯を残さずには従っていけません。霊界に行けば、自分の一生がありのままに明されるようになっています。私が小さいときはどうであり、育ったときはどうしたかという内容がスイッチさえ押せば全部現れるのです。このようなことを見るとき、天上世界の人や、今後数多くの後孫たちもうらやむことができ、涙を流しながら自慢しないではいられない尊い生涯を残して行く人は、偉大な勝利者というのです。そんな勝利者になるために、真なる生涯を残そうと覚悟して行く皆さんにならなければなりません。分かりますか?
 一瞬、一瞬、死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで訪ねこられたこの一時を、無意味に失ってしまう人になってはいけません。これは千年史を置いても変えられない価値を持っているので、これを逃せば大変です。この世すべて失ってしまい、探したものをすべて逃しても、これだけは絶対逃さないと誓う皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行こうと、もう一度誓いながら、あらゆる精誠をすべて尽くしながら行かなければなりません。
 皆さんには、ただ一度だけしかない七、八十年の生涯ということを知らなければなりません。私たちの生涯にあって苦労の路程がいくら長いといっても、永遠に比べれば、ひと息つく時間にもならないという瞬間なのです。そうでしょう? (一九六九・一〇・一九、大邱教会)

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