【今週のみ言】神様から密使の特命を受けている私たち 天基3年天暦10月19日(陽暦12月2日)第40号


今日この堕落した世界の歴史発展がそうであるように、神様の摂理路程も同様です。この摂理路程は、サタン世界と方向が同じで内容が通じる立場ではなく、方向も内容もすべて反対です。こういう立場から見るとき、新しい基点と、新しい体制を備えて影響を及ぼし得る環境を再建するのは、どれだけ難しいことでしょうか。

 歴史を経て、影響を及ぼすことのできるある一基準を成すまでには、表すことができない内的な闘争の時期があります。その内的な闘争が、時代的なすべての要人と、国家の為政者たちの前に影響を及ぼすことのできる基盤をもつようになるとき、その国家全体を新しい分野で革新することができます。もし狭い範囲に影響を及ぼすようになるならば、一つの村ができるでしょうし、一つの家庭もできるでしょうし、さらには一つの個人もできることでしょう。

 自分本来のすべての行動の要件を隠して、その社会環境と対する人々の前に、現実の社会環境よりもより有益な与件を新しく提示しなければなりません。その人々と何としてでも関係を結んで、心が通じる立場に立って、自分の本心と連結させて発展してきたのが復帰摂理歴史路程です。

 過去の歴史的な先祖を顧みると、彼らはどんな時でも密使の立場、すなわち、自分の正体を現すことができずに隠す立場にいました。そういう環境で、自らの踏み台を開拓するために限りなく努力していった人々です。

 今日サタンがこの世界を占領して、数多くの主権国家をもっている舞台の前に、この国家と世界を洗いざらい天のものとして転覆させようというのが神様の復帰摂理であり、救いの摂理です。ですから、このような摂理の志をもった一つの姿が現れるたびに、いかなる国家、いかなる社会でも反対せざるを得ない立場に立つようになるのです。

 ですから、反対される立場に立った人、言い換えれば摂理に責任を負って立つ人は、いつも密使のような心情でした。そのような人は神様から怨 讐の国家に派遣された密使、すなわちその国の主権に責任をもち、その主権が向かうことのできる運命を勝負づける密使の使命をしてきたというのです。

 ローマに入っていったキリスト教も、やはりそういう歴史過程をたどってきました。個人的な密使の行動が、家庭的範囲、氏族的範囲、民族的範囲として提示されるようになるとき、これがその社会において新しい革命ののろしになり、新しい国家を成し遂げ得たのを、歴史を通じて知ることができます。

 今まで宗教自体が発展するためには、その背後に密使の責任が大きかったことを知ることができます。怨讐の国家に派遣された密使の使命を成し遂げるために、そこに天の側の氏族を残していった人々は、その時代において天の前に責任を全うした人であり、そうでない人々は天の前に責任を全うできなかった人だというのです。

 今日、私たちはこのような道を切り開いてきています。先生が今まで指導する目的も、そこにあります。何でも、この国に対して利益を与えることのできる者になりなさいというのです。ですから私たちが必ず利益を与えることができて、利益になると彼らが認める立場にさえ立つようになれば、彼らを私たちが取ることができるようになるのです。

 そして、私たちが本当に間違えば頭を下げなければならず、また良くしても頭を上げずに黙っていなければならないのです。このようになれば、彼らは自然に私たちの味方になることでしょう。村でも同様です。その村に善良な人がいれば、誰が何といっても、村人たちはその人の肩をもつのです。村の人たちが彼を認めて、肩入れをしてくれるのです。

 このように、すべての人々が私たちの味方になることのできる環境を、どのように収拾し得るかという問題は、私たちが密使の立場を中心に、環境をどのように改善させていくかにかかっています。ですから、そのような生活態度が絶対的に必要だということを知らなければなりません。

 今や皆さんは、新しい密使なのです。神様から新しい命令を受けて、新しい世界の前に立った皆さんです。これから皆さんは深刻でなければなりません。威信をもって村の人たちに対してはなりません。皆さんの生死の問題が掛かっており、今までの世界の問題が掛かっているのです。

 ですから、深刻な心で新しい運命と共に私の基盤を固めて、密使の任務を全うしなければなりません。サタン世界に、崩れることのない基盤を固めるために、自分の身の振り方に気をつけなければならないのです。それにもかかわらず、昔のままの習慣で、新しい命令などしようがしまいが私のしたいとおりにするという心では、神様のみ旨を成し遂げることはできません。

 新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うのです。新しい現在の視点と過去の視点はお互いに違うのです。過去の段階と現在の段階とは大きく違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意で、新しい環境の基盤を備えずには、新しいみ旨を成し遂げることができないのです。

 摂理の段階も、一段階、二段階、三段階というように段階的に上がっていきます。それゆえ皆さんは次の段階に上がっていくために、自ら実践することができるという心をもたなければなりません。そうして実践したことが環境に適応するようになるとき、どのように成果として収め得る個体になるかということが問題になるのです。

 こういう問題を見てみると、皆さんはまだよく知らずにいます。十年前に入るときの心も現在の心も、先生に対し神様に対することにおいて同じだというのです。今の心がその時の心より劣るようになれば、押し出されるようになるのです。

 今まで神様が復帰してこられた過程には、天の秩序や礼儀礼法など、すべてが加重されてきています。加重されたこういう時代圏に自分が立っているにもかかわらず、昔世間知らずだった時の心よりもっと劣る心をもっていいでしょうか。部落での密使の使命と、道での密使の使命は違います。事情が違うというのです。また、一つの国の主権を中心として密使の責任を成すときにも違うのです。過去のような能力をもっては成せないというのです。

 ですから、新しい命令と新しい指示があるときには、その命令に従って自分の生命を投入し、再出発をしなければなりません。過去にしたその基盤をもっては成せません。再投入をしなければならないのです。皆さんは昔は失敗して追い出された立場でしたが、今は歓迎される立場にいます。これから特使の使命を遂行するようになれば、そこから神様のみ旨の横的な進展を見ることができるのです。そうでなければ、私たちは発展することができません。

                                   -訓読経  密使と祖国-