【今週のみ言】第50回天の父母様の日記念 天一国5年天暦1月2日(1月29日)05ー0872ー1


天の父母の日

真の父母を復帰する前には、すなわち堕落していないアダムとエバの家庭を探し出す前には、堕落していない子孫ももつことができず、堕落していない万物 世界ももつことができません。人間が万物世界を思いのままに主管できる立場に立たなければ、神様も神様としての振る舞いができません。それで、一九六〇年 を中心として「父母の日」を策定し、「子女の日」と「万物の日」を策定したのです。父母がいてこそ子女がいることができ、子女がいてこそ万物を主管できる のです。万物を主管するためには生育して繁殖し、地に満ちなければならないのであって、アダムとエバ、二人だけで主管するようにはなっていません。

子女は横的な基盤であり、父母は縦的な基盤です。そのため、父母は地上において神様の代身です。このような縦的な基台を備え、万物を主管するようになって いるのです。それで、統一教会では「父母の日」を立てたあとに「子女の日」を立て、「子女の日」を立てたあとに「万物の日」を立てました。「父母の日」と 「万物の日」、そして「子女の日」は、堕落圏にあるのではなく、神様の主管圏内にあります。すなわち、サタンの讒訴圏を抜け出した位置にあるというので す。そのため、神様と直接的な関係を結ぶことができるのです。

一九六〇年は、アダムとエバが堕落した長成期完成級の基準に上がった年でした。長成期完成級の基準を中心に完成圏まで上がっていくには、七年期間が必 要です。それが第一次七年路程でした。完成基準に立てば、神様の直接主管圏に入ります。そこは内外共に直接なので、心情生活圏もやはり直接主管できるのです。その完成基準を残したまま祝福した年が一九六〇年でした。アダムの堕落によって堕落圏、すなわちサタンの主管圏にいたのですが、このサタンの主管圏を 破壊する家庭が現れたので、この家庭に対してサタンは総攻撃をしてきました。しかし、サタンと闘い、ぶつかって追い出し、蕩減して「神の日」、「子女の 日」、「万物の日」、「父母の日」、この四大名節をこの七年間に探し立てたのです。

「神の日」の決定と同時に、地上に神様が臨在できる基準を立てることができました。ですから、これから統一教会の発展は、地上において急速に促進されるでしょう。そのような基準を成し遂げたので、統一教会は真理を中心として、霊界解放とともに地上解放、そして地獄解放へと発展していくのです。なぜな ら、「神の日」を迎えたそのときから地獄が壊滅し、サタンも滅亡するしかない立場に行き着くからです。それで、「神の日」の決定と同時に、先生の使命は完 成したのです。

「神の日」が現れるまで、どれほど大変だったか分かりません。「神の日」を策定した時が最も大変でした。いくら「父母の日」が立てられたとしても、そ の「父母の日」を支えられる「子女の日」がなければ、「父母の日」は「父母の日」としての役割を果たせないのです。また「子女の日」を立てたとしても、 「万物の日」を立てなければ、「子女の日」が「子女の日」としての責任を果たせません。そのため、「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」 が完全に一つになって、神様の主管を受けなければなりません。そのようにできなかったのが嘆息の要因です。これを連結させるために立てたのが、一九六八年 の一月一日に世界的に宣布した「神の日」です。

「神の日」が始まることにより、神様を中心として皆さんの一次七年路程と先生の二十一年路程を越え、今や第二次七年路程、その後の世界においては、 天の家庭を中心として、神様が直接的に指揮できる時代になります。これを連結させて氏族を立てたのは、民族を救うためであり、これが神様の使命です。ですから、今私たちに残された使命は、民族を中心として復帰の使命を完結していくことです。

私たちの段階においては、迫害が既に消えてしまいました。何度も繰り返される困難な蕩減の時代が過ぎ、今や私たちが蒔けば、刈り入れができる時代になりました。ですから、神様のみ前に感謝しなければなりません。これからは皆さんが十ほどの苦労をすれば、その十の苦労が実を結ぶ時代圏を成し遂げました。これが神様のみ前には無限な誇りとなり、サタンの前には無限に悔しい事実となりました。それにより、一九六八年一月一日、午前三時を期して、「神の日」を策定したのです。この日はすべてのものを捧げ、すべての精誠を尽くして感謝し、神様に栄 光をお返ししなければなりません。この日は千秋万代の私たちの子孫が永遠に賛美するでしょう。神様がいらっしゃることを知らしめたこの日を、永遠に賛美し なければなりません。

私たちが迎えた「神の日」は、すべてのものが集中した希望の日です。また、この場は、イエス様のときの使徒たちの位置とは比較にもなりません。このような途方もない内容と結実の価値をもっているのが「神の日」なので、この日を心から祝う私たちの姿勢は、どのようなものでなければならないのでしょう か。皆さん個々人の心は、どのようにあるべきでしょうか。アダムとエバのときの、アベルがこの日を祝えるようにしなければなりません。

またノアが、「あなたたちの驚くべき心情を賛美いたします」と祈れるようにしなければなりません。そして、三代の信仰の先祖であるアブラハム、イサク、ヤ コブから「私が苦労し、私が困難に遭ったのは、きょうこの一日を迎えるためだったので、あなたたちの驚くべき成就を賛美します」という称賛の言葉を受けられるようにしなければなりません。

これだけでなく、イスラエル民族からも「私たちが国を探し立てるために、モーセを中心として砂漠を横断し、そのすべての困難を経ながらも備えることができ ず、収めることができなかったイスラエル圏を、このように整えてくれたので有り難い」という称賛の言葉を受けられるようにしなければなりません。これらの 問題を見るとき、「私」はこの日のためにどれほど忠誠を尽くし、この日のためにどれほど苦労し、この日のためにどれほど犠牲の代価を払って、この価値ある 日を迎えて祝っているのかということを考えてみてください。

皆さんは、「神の日」という宴の日を迎えるために、どれほど準備しましたか。自分の一人息子の結婚式を準備する、それ以上の準備をしましたか。女性 たちは、結婚して新郎がいる部屋に入る前に、垢という垢はすべて落として精誠を尽くして装った、それ以上の準備をしてみましたか。また、男性たちは、「あ なたでなければ私は死んでしまう」と大騒ぎして、望みのない困難な立場から数多くの障壁を取り除き、初めて願いを成就して、男性として喜びの心で新婦を迎 える、それ以上の心で参席する準備ができていますか。

六千年間待ち望んできた、一つしかないこの聖なる「神の日」の行事のために、どれほど途方もない準備をしなければならないでしょうか。ここに参席した皆さんの誠心誠意が足りていないことを自ら認めなければなりません。そして、参席するときも、ただ参席するのではなく、統一教会の教会員の中で、誰よりも人知れず精誠の度数を満たし、神様のみ前に、中間ではなく最も近い立場で参席するという心をもたなければなりません。

『天聖経 P1235~P1239』