【今週のみ言】 天一国4年天暦8月11日(9月11日)04-0872-24


1 習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶えず活動するサタンに讒訴条件を提示する要因になります。人々が復帰路程を歩んでいくにつれ て、一人も失うまいとするサタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって一個人から離れていかな ければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。

ですから、ある意味では、厳格な戒律が信仰生活に有益です。習慣に依存した世俗的な生活は、皆さん自身を過去の生活に簡単に引き込む傾向があるので、真の 生活の方法になり得ません。人間は、ただ真の愛と持続的な自己犠牲の生活をするとき、初めてサタンを克服できます。したがって、困難でも公義を実行すると き、人間の偉大な充足感も得ることができます。皆さん全員が、このような生活を営まなければならないのです。

4 信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、 「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自ら主張できる一片の心もないのです。

信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として 深刻に考えるというのです。

6 堕落した人間は、サタンによって生命が始まったので、自分自身を否定しなければ神様の生命と連結できません。ですから、生命を投げ出す方法しかありま せん。それでは、生命の統一はどこで起こるのでしょうか。堕落した生命を捨てるところ、すなわち自分の生命を犠牲にする、その果てにおいて神様の新しい生 命と関係が結ばれるのです。ですから、信仰の道は、み旨のために行く道であり、一つになるための道であり、命を懸けて行く道なのです。

7 先生は、皆さんが部屋の中で笑いながら話をしても、すぐにその感じが伝わってきます。この笑いが神様のみ前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる 笑いなのか、その感じが伝わってくるというのです。皆さんもそれができるように、習慣化して発展させていかなければなりません。

ですから、自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を啓発させ、発展させるための一つの教材 として登場するのです。そのような生活態度が必要です。一人だからといって、自分勝手にはできないのです。

このような生活態度を中心として生活すれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であっても、いい加減に接することはできません。初めて会う人だか ら、適当に扱えばいいだろうと考えてはいけません。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。ですから、このようなあらゆる心情的基準を 中心として、体恤する環境を開発する生活をしなければなりません。そのように、あらゆることにおいて、間違いなく効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的な信仰ではなく、実質的な信仰生活であり、神様と共に生きる信仰生活です。

 

8 信仰生活は切実でなければなりません。おなかのすいた人が御飯を恋しく思うこと、母を失った子女が母を探すのと同様に、そのような切実な心が先に立たなければなりません。信仰の道や信仰の目的というのは、見えるものではないからです。神様のみ旨が見えますか。神様のみ旨は、人を通して成就されるまでは 見えないのです。

世の中では、すべて計画し、設計し、予算を編成して広げていきますが、神様のみ旨は、目で見ることもできず、触ることもできません。ですから、その見えない世界を追求し、それに対する目的を現実として成就していくことは、とても難しい課題です。

皆さんの目は、見えないものを見るようになっているのではなく、見えるものを見るようになっています。また感じるのも、見えないものを見聞きして感じるようになっているのではなく、見えるものを見て感じるようになっています。必ず五官の作用は、見える世界を見て、聞いて、触って、感じるようになっているの です。

「天聖経 8編 信仰生活と修練」

1 これから、訓読会をしなければなりません。本を買って、皆さんがその体制をつくっていかなければなりません。食口がひと所に集まり、訓読会をしなければならないのです。先生は、山に行っても、訓読会の時間になれば、独りでもしています。皆さんも訓読会の時間になれば、寝ていても、起きて訓読しなければ なりません。今後、原理を知らない人は、人としての扱いを受けられなくなるのです。

2 先生と関係を結んだみ言に通じるようになれば、み言に通じれば通じるほどその精誠の度数が強くなり、愛の心がそこに宿ります。ですから、み言訓読会を 毎日のようにしなさいというのです。訓読会の味が、御飯を食べることよりも、愛することよりもおいしいという人は、無限に発展するでしょう。先生の生涯の 一つ一つの場面を、最高に深刻な立場で集めて宣布したのです。

3 み言がどれほど貴いかをよく知る人は、先生しかいません。そのみ言がすべて、今まで埋まっていました。そのみ言を伝えたときは、生死を越えて話をした ことを知らなければなりません。そのみ言には、そのときに深刻だった天の心情圏が埋まっています。そのみ言を読み始めれば、昔、感動を受け、関係を結んだ 霊人たちがすべて協助するので、相当な恩恵が宿るのです。もう一度このように目を覚まして読むことにより、昔、天が役事したその役事を今も同じようにする のですが、その背後では霊界の協助によって何十倍、何百倍、強く役事するというのです。 「天聖経 11編 礼式と名節」