【今週のみ言】基元節1周年行事の報告 天一国2年天暦1月17日(陽暦2月16日)第3号


歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。
 それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。
 モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。
 このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。
 なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。
 そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。
 エジプトにあったイスラエル民族は、モーセのような心であったので団結してサタン的な試練を撃退しましたが、彼らがイスラエル民族を代表する立場で荒野に出てアマレク族と戦う際には、飢えにも直面するようになりモーセを恨むようになりました。
 彼らがモーセを恨むようになったその原因とは、どこにあったのでしょうか。何ゆえに恨むようになったのでしょうか。彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神様のみ旨に対していたなら、モーセを恨まなかったでしょう。しかし四百年間エジプトで生活してきたその習慣、彼らの生活的な環境が荒野で引っ掛かるようになったのです。今日皆さんは、これを肝に銘じなければならないのです。
 別の言い方をすれば、モーセを信じて出発したイスラエル民族であったのに、彼らは出発する前の生活環境に対する未練を捨てることができず、滅びるようになったのです。また、それがモーセの進む道を破壊してしまい、モーセとイスラエル民族を分離してしまったのです。
 ですから、今日世界カナン復帰の全体的な理念を掲げて歩む第二選民、すなわち世界的なイスラエルを代表する全世界のキリスト教徒たちは、第一イスラエル民族が経た苦役時代のような時代に直面したとしても、神様の選民らしく志操を立てなければなりません。同時に彼らは、民族に代わって一人で現れた指導者の立場をくみ取ることができずに、四十年荒野時代において飢えに直面し、すべてを恨み不信して滅びたイスラエル民族の二の舞いを演じてはならないのです。
 イエス様の前途を台無しにしたのは誰だったのでしょうか。それは、神様のみ旨に代わり、歴史性の代わりに、全体の価値の代わりに選ばれた民族でした。彼らは、神様のみ旨を成し遂げるための生活をしなければならず、そこに信仰の基準を立てなければならなかったのに、そのようにできませんでした。すなわち、モーセのみ旨を担うべきイスラエル民族が、彼を荒野で倒れさせたのと同じように、イエス様のみ旨を担うべきイスラエル民族が、イエス様を信じず、十字架にかけて殺してしまったのです。
 ですから、モーセのみ旨をヨシュアとカレブが引き継いで、二世たちを連れてカナンに入っていったように、今や第二のヨシュアとカレブがイエス様のみ旨を引き継いで、第二の使徒たちを連れて世界的なカナンの福地に入り、地上天国を建設しなければなりません。これが、イエス様の望みであり、再臨理想なのです。
 そのため、今日み旨のために召命され選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する摂理的な意義を知って、民族的な犯罪を再び犯してはならないのです。イスラエル民族が歩んだ犯罪の行路を、再び歩んでいく皆さんになってはならないというのです。

今日、私たちがこの地上に生まれた目的は、国を愛するためです。神様が今まで摂理してこられたのも国を愛するためです。それでイエス様は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。……まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一~三三)と語られました。

 ここでいう「神の義」とは、行動の価値のことです。国のために犠牲になることなくして、義が成立しないということです。

 それでは、どのような立場で犠牲となるべきなのでしょうか。神様と私が切っても切れない立場、すなわち、縦的な歴史を垂直に流れる直系の心情を相続し、世界を愛し、国を愛することができなければなりません。また、個人をその国の代表として愛し、多くの氏族をその国の代表として愛し、多くの民族をその国の代表として愛し、神様が求めていらっしゃるその国のために、多くの国を愛することができなければなりません。

 このような愛の伝統の因縁をもって、その国を愛するために犠牲の道を行ってこそ、義人の立場に立つことができるのであって、それ以外には義人の立場を決定することはできません。国のために死ぬとしても、絶対的に正義に立脚した生活をして初めて義人となれるのです。したがって、国を愛する心がなければ義人になることはできません。それゆえ聖書には、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあるのです。これは、国を愛する人がいないために、そう言ったのです。

 イエス様も、国を愛したくても愛することのできない立場に立っていました。心では愛していても、実際に愛し得るイスラエルとなっていなかったので、イエス様は国を愛することができなかったのです。国がまず欠け、民族が欠け、氏族が欠けてしまったのです。さらに、十二使徒までが全部欠けてしまい、愛するための条件がすべて崩れるという立場に置かれたのです。ですから、嘆息せざるを得なかったのです。義人が一人もいないというのは、悲惨なことです。これこそ、歴史を通して今までつづられてきた神様の事情なのです。

 イエス様は、それを感じて落胆するよりも、神様は自分自身よりもっと哀れな方であると考えたのです。「私は一人の人間として生まれ、三十年余りの短い生涯の過程で国をもつことができなかったということはあり得るとしても、お父様は最初から歴史の背後で復帰の使命に主導的な責任をもち、これを収拾するためにどれほど苦労してこられたことか。愛する国のないお父様がどれほど哀れなことか。その国が現れるまでの長い間、歴史を導きながら犠牲の代価を払ってきたにもかかわらず、いまだに国のないお父様は、どれほど悲しいことだろうか」と考えたのです。

 イエス様はこのように考えたため、「お父様!」と呼びつつ、神様のために祈祷する立場に立たれたのです。それゆえ、イエス様こそが、神様の心情を代表した息子であるということを皆さんは知らなければなりません。天国と地獄は、ここから分かれるのです。

                       - 訓読経 -