【今週のみ言】生きた祭物になるためには 天一国元年天暦10月8日(陽暦11月10日)第36号


蕩減条件を成す者は祭物である

 蕩減条件を成す者にとっては、自由がないというのだね。それは一つに祭物である。だが、自分という存在意識を持つ者は、祭物になれない。祭物は自分でありながらも、しかし自分の思うままに絶対出来ない。主人が引き出して「祭壇に上がれ。そうして血を流せ」といったら、それに服従しなければならない。反抗したらいけないというのだね。例えばイサクのように。イサク自身、自分の生命に対しては権限をもっているのだけれど、親に対してはそういう権限をもったらいけないというんだね。わかる…。

 今まで霊界と実体界とは、人間の堕落によって分かれていた。これが君達を中心として祭物を捧げることにより、神が認め、サタンも認めて、一体となることが出来るというのだね。今まで祭物は二つに裂いて捧げてきたけれども、割った祭物は死んだ祭物である。祭物は本来、死んだ祭物でなく、心身共に一つなる生きた物であるのだけれど、今まで心と体、天と地は戦ってきて、心は天、体は地のような関係にあり、裂くということはその分別点を表わして、いわゆるそこに蕩減条件の血を流し神に捧げられてきたけれど、しかし我々においては、神とサタンが認める立場、心と体が一体となり、死なずして生きた祭物として神に捧げて、新しく神から生きたものとして立てられる実体物にならなければ、天国に入れないというのだね。

 復活したイエス様は、殺された汚れた肉身の立場で復活したのだから、我々においてそれ自体、心身共そのまま復活なしえたという基準を立たさなければ、天地共に完成しえる天国に入れないというのだね。だから死んだらいけない。死んだらいけない。

存在意識、階級意識を持つな

 イエス様を何故子羊にたとえたか。子羊は毛を刈っても、あるいは包丁を刺しても、反抗しないというのだね。それが普通の動物と違っている。それは従順を表示する、素直さを象徴する。まずそうして蕩減させたんだね。もしも反対すれば、サタンの性質に同感するというのだね。サタンは何の主かというと、反対の主である。正義に対して反対の旗を立てて出たのがサタンであり、神に反対し、善に反対した主である。だから、その祭物にもし反対の要素が少しでも残っていれば、それは祭物になれないというのだね。子羊がイエス様を象徴したのは、神の前には羊のように絶対反対しないし、意志がない。ゲッセマネの祈りの時も三回、自分のむこうのとりなしをして、「神のみ意の通りになし給え」と祈られた。その従順さ、素直さを羊で象徴したのだね。だから、存在意識をもってはいけない、というのである。

 ところでまた、あがなう者にとっては、ある階級以上のものが必要であって、それ以下のものはいらない、そうはいかないんだね。階級を超越し、どんな者にも素直になれる。惨めな者の祭物にもなるし、祭司長の祭物にもなる。何故そういうふうに階級を超越しなければならないのか。心情的中心であり主人である神様に供えるものに階級的意識があったら、心情的立場に立つ事が出来ないというのだね。愛、心情には階級はないでしょう。万民が共同に持ちえる存在。万民が自分の贖罪のために、いかなる方法をとって引張っていっても、「罪をあがなってくれ」といわれればそこへ行ってやる。そういう者が大勢いるだけ勝利だというのです。君達もそうならなければならない。

 我々はとび出しかかっている。サーブ(奉仕)する立場にいるんだね。霊界肉界共の捧げ物として。だから“おお、おれは誰それだ”“東大出身である”“君達に比べればおれが高いじゃないか”そういう基準をもったらいけないのだね。それだから、存在意識をもってはいけない、階級意識をもってはいけない、というのだね。

 そして、大いなる責任を持った者がどういう立場に立つかというと、全体的祭物として祭壇にあがる立場だというのだね。だから日本全国を代表する久保木会長は、日本を代表して祭壇に捧げる供え物である。そこにおいては存在意識、階級意識がない。あらゆる階級を超越して、みんなの贖罪のための供え物である。

イエス様の愛の伝統を相続せよ

 繰り返しいうが、存在意識をもってはならない。第二に階級意識をもってはならない。それが出来なかったなら、絶対に神に捧げる供え物になれない。

 今、そういう観点から少しばかり批判してみよう。君達、地方におかれている地区長さんは、どう考えているか。つまり、地方においてその教会に集まってくる人達は何かというと、祭物によってあがなわれる者達であり、その祭りをするために集まってきた人達である。故に贖罪してやらなければならない。祭物たるその責任者は、彼らに対して命令する立場にあって、彼らを復活させる立場である。しかしその時、先に「私に命令をして下さい」という立場に立たせないで、命令したら法にかかる。

 イエス様は十二人の弟子達を完全に屈服させて、彼らの罪を贖い、そうして救われている感謝の心をもって「永遠のその目標の前に我が一瞬を何千遍死の境地に立たしても感謝いたします。どうぞ、主のみ意通りにやって下さい」というその告白を受けてから、命令することが出来たのであって、それまでは命令出来ない。この伝統的立場を君達が受け継いで、その精神のもとに地方において働くとするなら、罪を贖われたその感謝の涙を君達の前にいつも見ることが出来るでしょう。

 結論はそうである。「真の供え物として、我々の罪を贖なってくださった地区長、責任者に感謝いたします」と、いつもその前には頭があがらない、感謝の涙の絶えることがない様な立場に、どこへ行っても出会うことが出来るでしょう。もしこれを誤ったら、日本の発展に障害をきたす。

 責任者たる者、それが高く大きい立場の責任者であればある程、これは供え物である。大いなる万民のための供え物である。万民に我を通して神の恵沢を授けるような、その中間的使命をなさずして彼らに命令することは出来ない。もしも彼らの罪が百という基準にあったとして、その百を許した場合には、九十以下は命令してもよろしい。しかし、その中の十も許してやらずして、又たとえ十を許しても、十の罪も贖罪せずして、二十の命令をしようとするものだったら、責任者も、ついて行く人も、共にサタンのものになってしまうのである。