【今週のみ言】私たちが行くべき道  天基3年天暦2月5日(陽暦2月26日)


私たちが行くべき道
したがって皆さんは、この国を、自分の息子、娘を愛する以上に愛さなければなりません。み旨に従っていく場合、代表的に責任をもっていく時を多くもたなければなりません。神様の前に祈祷するとき、こちらに行こうにも行けず、あちらに行こうにも行けないという立場、こちらに行ってもうまくいかず、あちらに行ってもうまくいかないという時があります。そのような時は、祭物を通して行くしかありません。そのまま行くことはできないからです。
その祭物をどのようにして模索するかという問題を考えてみるとき、自分の愛する息子、娘と家庭、自分の愛する氏族、自分が愛して率いる統一教会をどうやって祭物として捧げるか、という問題について考えざるを得ません。それができる宗教があるとするならば、その宗教によってこの国は救われることでしょう。
そのために生まれ、そのために生き、そのために死ぬことが私の本来の天職であり、神様が私をこの地上に送り、賦与された任務なのです。ゆえに、その任務を遂行する運命の道を行かなければならないのです。皆さんも、当然そうでなければなりません。したがって、自分の生命の峠、生命の限界線を超えた立場で肯定し、是正することのできる自分自身の姿をいかにしてもつか、ということが問題とならざるを得ないのです。
もし、「国を取るか、自分の家庭を取るか」と聞かれたならば、私たちは「国を取る」と答えなければなりません。また、「教団を取るか、国を取るか」と聞かれても、「神様が訪ねてくる国を取る」と言わなければなりません。また「民族を取るか、国を取るか」と聞かれたならば、「民族を犠牲にしてでも国を取る」と答えなければなりません。
超民族的な時代が迫るこの時点で、私たちは落胆したり、希望を失ってはなりません。これは時が近づいたという証拠です。その時の絶頂を迎える三角地点において、すなわちサタンの悪と神様の善が交差し、ぶつかる瞬間に、これを善の側に転換するのは、神様でもなくサタンでもありません。唯一人間なのです。
今や、国がそのようなことができる時が近づいたのです。アジアの情勢が世界のすべての運命を左右するという気運の押し寄せる切迫した時の到来は、世界的な運勢を決定する最後の瞬間が、私たちの目前に迫っているということを意味しているのです。このような瞬間を迎えて、「いかにしてこの時に合わせて越えていくのか」という問題に取り組む群れと氏族、団体がなければなりません。それゆえ、神様を中心とした、そういった団体が必要なのです。
それで、統一教会がそういう団体になろうとしていることを、皆さんは知らなければなりません。私たちの願いは統一です。統一のためであれば、愛する教団さえも祭物とすることができなければなりません。そういった感情を一つの基点に一致させれば、ここから新しい創造の能力は無限に広がっていくことでしょう。そのようになれば、歴史が収拾されるのです。
統一教会を中心として神様の愛の因縁を結束し、国を愛する心を合わせた位置に立てば、その中に国が、国の中に民族が、その家庭の中に個人が存在するのです。このように国を復活させ得る国民になったとするならば、その国民は、自動的に解放を迎えることができるのです。
その国民が善主圏内に立てば、それと同時に神様の前に行くことができるのです。このように国の主権が立てば、民族も救うことができ、氏族も救うことができ、家庭も救うことができるのです。したがって問題は、国が定められなければならな

今まで地上で人類が探し求めてきたものが、まさしくこの核なのです。

一つの国家形態を備えるためには、あくまでも個人が問題となります。そして次に、個人を中心とした家庭が問題です。統一教会で祝福を受けた家庭は、国のために祭物となることができなければなりません。この点を皆さんは、明確に知らなければなりません。
天国か地獄かが、ここで分けられるのです。聖書をよく学び、話がうまいということで、天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題となるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線によって左右されるのです。
今日、祝福を受けた家庭は、祝福を受けて生まれた子女たちが貴いといって、かばおうとしますが、そうであってはならないのです。祝福を受けた家庭の子女を祭物とすることができなければなりません。その子女を、国を愛する以上に愛してはなりません。今日のこの国のためではなく、神様が訪ねてくるその国のために犠牲にすることができなければなりません。それゆえ、神様の国を建てるために子女をも犠牲にするという覚悟で進まなければならないのです。
そのように生き、そのように闘い進む人がいたとするならば、その人は明らかに現在においてあすを迎えることができ、あすを占めてなお余りあることでしょう。与えられた立場であすに備えて進むゆえ、未来の天国は、その人のものとなって当然です。
今日、宗教を信じる人々が「天国へ行こう」と言いますが、天国へ何もせずに行くことができますか。まず、この地上で天国を迎えてから行かなければならないのです。地上に天国を迎えるためには、愛の法度を経ていかなければならないことを、明確に知っていなければなりません。皆さん全員が、そうなることができるように祈祷しなさいというのです。
皆さんの家庭に愛する子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をより一層愛するための十字架が増すということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るということは、担うべき十字架が多いということであり、国のために捧げるべき責任が多いということを意味します。そのような内容を知り、責任を全うする人とならなければなりません。そういう家庭にこそ、その家庭に後代を相続することのできる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。
皆さんが過去、現在、未来を占めるためには、皆さん自身が過去、現在、未来を通した心情的な代表者とならなければなりません。家庭がそのような心情的な代表とならなければならず、氏族がそのような心情的な代表にならなければなりません。そうなれば、その個人、家庭、氏族は、世界を指導することができるのです。
そのような個人、家庭、氏族となるためには、いつ、いかなる時も、自分の家族、自分の氏族全体が犠牲になるとしても、神様の前に当然のこととして捧げることのできる伝統を残さなければなりません。そのようにして死んだ家庭と氏族は、死んだことにはなりません。勝利を収めて未来を自らのものとした氏族であるがゆえに、死んであの世へ行ったとしても、それは変わることはありません。あの世に行っても、中心になるのです。したがって、皆さんがこのような道をたどることなくしては国を救うことができないということを、明確に知らなければなりません。
そして、この民族全体を団結させて、心情的一致点をもたせ、この国を今後来たるべき希望の国のために祭物として捧げなければなりません。そうして、この環境の基盤の上に、天上の因縁を結び、新しい創造の歴史を築くことのできる世界的な結実を結びたいというのが、先生の考えです。それで「明日を迎えよう」という題目でお話をしましたから、皆さん、よく覚えておいてください。

-訓読経 下-

いということです。平面世界では、これが核になるのです。