【今週のみ言】5月は大事な家庭の月 天一国元年天暦4月3日(陽暦5月12日)第13号


人間たちが誇ることのできる最も大きな自慢の種

 神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。神様はアダムとエバをして、最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはずでした。
 神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなったなら、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。アダムとエバはまたどのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とした真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。
 堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛でつづられた伝統にならざるをえません。
 神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、離れたとしても再び戻らざるをえません。堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものがその懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でつながっていたなら、その懐を離れられないのです。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかないのです。
 そのような立場で人間たちに誇るものがあるとすれば、第一に神様は私の父だということであり、第二に自分たちは神様の愛を受けられる息子・娘だということであり、第三に自分たちは神様が創造した宇宙の相続者だということです。今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう誇ります。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな誇りがどこにあるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I-三一九)
 アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の基点を整えられる家庭になったでしょう。
 その家庭は、神様が創造したアダムとエバの理想を完成するために、愛の結合によって一体になることのできる基となったことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三二〇)

理想的な夫婦の関係

 真の夫とは「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもつことのできる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭であらざるを得ません。
 男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。女性がいなければ男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、「私」がアメリカのある俳優だと誇っても、その女性は女性のために生まれたのではありません。
 ですから男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを合わせれば、よく合うようになっています。それゆえ真なる愛の妻、真の理想的な、幸福な妻と夫はどこに存在するのでしょうか。「私」のためにではなく、互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。それは間違いない事実です。
 このような原則から見るとき、理想的な愛や、また幸福で善なる人をどこで探すことができるかといえば、自分のために生きようとするところでは探すことができず、人のために生きようというところに根拠を置けば探すことができるのです。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げることができなければなりません。その夫婦は神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので、堕落はあり得ません。(祝福家庭と理想天国I-八八二)
 男性が自分の妻を愛することにおいては、世の中のどの男性が自分の妻を愛するのよりも愛さなければなりません。女性も自分の夫を愛することにおいては、世の中のどの女性が自分の夫を愛するのよりも愛さなければなりません。それが真の家庭を築いた夫婦が守るべき愛の倫理なのです。
 真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫とは、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。
 新郎・新婦はお金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、その妻の姿を見て夫も力が出るようになっています。
 ですから、彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成し、愛を中心として前進的発展を成していかなければなりません。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中で、一級の夫婦が神様を愛する家庭をつくり上げていかなければならないのです。
 夫と妻が互いに愛し合うことにおいても、神様の身代わりとして夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。
 最近、済州道の娘が嫁ぐとき、田畑を与えれば登記するのに娘自身の名前でするというでしょう。いつでも夫と別れれば自分の主張をするために、そうするのです。それは本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金、これは自分のお金、お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金・・。それは愛ではありません。
 お金の包みを広げて使っても「どうなった?」「私が使った」「そう? いい時に使ったわね・・。もっと使って・・。」これでこそいいのです。口をぶるぶる震わせ「ああ、また使ったわね・・!」これでは落第者です。ですから、いつも与えても、無限に与えることができ、いつも思いのままに、深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授け受けることができるようになるときに、幸福なのです。
 それゆえ、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときも不幸なのです。(祝福家庭と理想天国I-八八二)

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