【今週のみ言】真の神の日と基元節聖酒式 天基3年天暦12月23日(陽暦2月3日)第49号


初めて神様が姿を現される

 統一教会時代は父母の時代です。神様が地に臨むことができ、神様が来ることのできる道をつくるのです。それで神様が来られて、侍ることによって救われるという言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。
 最後に残るものは何でしょうか。神様プラス人間、神人、神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人人生観、神人世界観です。それは漠然と神様のことを人が知ることのできる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようにも離れることのできない位置です。なぜでしょうか。神様と人は本来離れることのできない位置で離れたので、離れることのできなかったその位置以上の位置に到達しなければなりません。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければならないのです。

 侍義というのは生活化天国時代を言います。それで侍義を掲げてきたのです。復帰歴史は何かと言えば神様の創造理想を再現することです。
 神様を心の中に迎え、私たち人間が体の立場で完全に一つとなることのできる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道はありません。このような観点から、侍る時代、侍義の救援時代と考えるのです。侍ることによって救われるのです。神様はあの空中に遠く離れた神様ではありません。私たちの生活圏内の主体者としての神様に侍らなければなりません。
 神様は、妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性を備えて、常に私たちの暮らしている生活の主人として共にいるのです。侍られるだけではありません。共同的な愛を中心として共同的な生活をしている神様なのです。
 神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見てください。体をもっています。しかし無形の神様には体がありません。体を着なければ、体をもたなければ霊界世界や地上世界を治めることができないのです。ですから神様がいらっしゃるにしても、神様が人間の父母として現れるためには体をまとわなければならないのですが、その体を着た代表が誰かというとアダムとエバなのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。それゆえアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様となるのです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
 無形の神様には実体がないので、その形体を表したのが真の父母です。真の父母は個人的な父母であり、家庭的な父母であり、氏族的な父母であり、民族的な父母であり、国家的な父母であって、霊界に行ったのちも、真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かというと、レバレンド・ムーンの形状を神様が使おうとしていることです。どういうことか分かりますか。
 その父母というのはどのような父母でしょうか。何億もの人間の父母が一度に生き返ったとしても、今日皆さんの言う真の父母の栄光を備えた父母はいないのです。千万代の先祖がみな復活して、復活した栄光をたたえたとしても、それは堕落圏から抜け出していない栄光であり、称賛です。しかし今日統一教会で言う真の父母という言葉は、皆さんの立場が悲惨でも、幾千万の先祖と共に、この地に勝利をもたらして、万民解放圏を備えた栄光の立場で称賛する以上に価値のある、誇るべき言葉だという事実を知らなければなりません。父母様に出会った中で、神様に出会うことのできる道がつながるのであり、統一教会に巡り会ったこの場は、近い将来、神様の国と父母様の願われる祖国を取り戻すための道につながっているという事実を知るべきです。
 成約の侍義時代は、生活の中で直接神様に侍って暮らす時代です。その時が神様の幕屋が人間にある時であり、天にある新しいエルサレムが地上に降りてくるので、その時初めて真の神様の姿が人間の前に現れることでしょう。創世以来、初めてです。今までアダムの堕落以後、未完成級の歴史上では神様は現れることができないのです。

                『天聖教 真の神様 』