【今週のみ言】天が願う夢を成す為に共に精誠を尽くしましょう 天一国4年天暦10月28日(11月27日)04ー0872ー33


皆様。その方法を御存じでしょうか。それは皆様の願われる方法ではありません。誰もが願うような方法ではありません。第一に、良心と反対になるものを打ちなさいということです。神様は代わりに打つことはできません。打つことができるならば、サタンも打つことができるのです。中間の立場にいる人間をめぐって争奪戦をしているのです。神様の教えは、良心を中心として体を「打ちなさい! 打ちなさい! 打ちなさい!」というものです。このような運動を世界的にせざるを得ません。「体の嫌うことをしなさい」というのです。それを教えるのが宗教です。

それでは、宗教の教えとは何でしょうか。すべての宗教は「体を打ちなさい! 食を貪ってはいけない! 自分本位にやってはいけない! 肉欲に主管されてはいけない!」と教えるのです。高次的な宗教は、すべてそのように教えているのです。仏教も、苦行を重要な教えとしています。キリスト教も、犠牲を信条としています。それを実践しようとすればこの上なく難しいので、神様は一つになる方案を提示しなければならない、と考えざるを得ません。人間には心と体があるので、一度は心に従ったと思えば、今度は体に従っていき、そのように行ったり来たりするのです。

宗教の教えは、体の願うことを否定し、その反面、精誠を尽くさせて、神様の力を受けようというものです。これが今まで展開してきた宗教の運動です。それで神様は、そのような個人から始まり、家庭、氏族、民族を経て、一つの国を願ってきたのですが、それがイスラエルの国であり、イスラエル民族だったのです。すなわち選民でした。歴史上に「選民」や「選ばれた国」という言葉があるという事実を考えてみれば、神様が存在することは否定できません。

神様が計画されたとおりに、個人的に心と体が完全に一つとなり、家庭的に完全に一つとなり、氏族的に完全に一つとなり、民族的に完全に一つになって、世界まで完なに一つにできる代表者を送ってくださることを約束したのが、イスラエルのメシヤ思想です。神様が原型として待ち望まれた個人、家庭、国、世界をすべてイスラエル民族と一つにさせ、一つの国をつくり、神側の世界をつくって、この世界を救おうとしたのです。

今日のキリスト教信徒が信じているように、主が空中に再臨するとすれば、そのような原型で統一された個人と家庭と氏族と民族と世界を成し遂げることはできないのです。来られる主が成就できる目的地は、空中ではなく、この地上、この世界であることをはっきりと知らなければなりません。ですから、イエス様は一つの原型を形成した男性として、心と体が完全に統一された男性として、統一された女性を迎え、統一された家をつくらなければならないのですが、どのようにすればつくることができるのでしょうか。これを解決しなければ、統一された国と世界は現れてこないのです。

今日のキリスト教の信徒の中に、「私は新婦となり、新婦として主が願われる家庭を築こう」と考える人がいるでしょうか。具体的な内容を知らずにいるのです。どこに来られるのかということも、どのように来られるのかということも知らずにいるのです。主は雲に乗って来ると文字どおりに信じてはいけません。主は、神様が願う一つの家庭を求めるために来るのです。その家庭を求めるためには、その家庭だけでは駄目なのです。家庭のために生きる氏族がなければならず、氏族のために生きる民族がなければならず、民族のために生きる国がなければなりません。一つの国を中心として成し遂げることができる原型をつくっておかなければ、第三イスラエルの国を見いだせないことを、現在のキリスト教は知らなければなりません。

命を捧げて国を愛した人であるほど、それも悲惨な立場で犠牲になった人であるほど偉大なのです。悲惨であればあるほど、それが一時は悲惨ですが、歴史時代が過ぎれば過ぎるほど、だんだんと環境の範囲が広がり、その人を中心として一つになるようになっているのです。

イエス様の死も同じです。イエス様は誰のために犠牲になったかというと、世界の人類のために、世界の国のために犠牲になったのです。誰よりも人類を愛し、誰よりも神様を愛し、怨讐までも愛した立場で福を祈って、悲惨な立場で亡くなったのです。名もなく死んだイエス様であり、その当時は民族の反逆者として追われたイエス様が、今日、世界的なキリスト教文明圏を創建するとは、誰も知りませんでした。ここで私たちは、一つの原則を提示することができます。大きな舞台のために、公的な大きな仕事のために犠牲になった人は、滅びるようにはなっていません。滅びることはないという事実を、私たちは知ることができます。そのような人たちが歴史的な聖賢たちです。       「平和経」