【今週のみ言】変わらない信仰生活と私 天一国4年天暦10月7日(11月6日)04-0872-31


私が悔しいとすればどれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。痛哭せよというとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で千年歴史を抱き、失った悲しみを抱いて痛哭する痛哭、文総裁が心から流れ出る神様の心情を感じながら痛哭するその痛哭には及びません。そのような根の上に意地を張って座り、そこで自分がよく食べ、楽に暮らすのですか。そんな者がくたばって死んだ死体は犬も食いません。はっきりと知らなければなりません。

いつも気分のいい男の姿をして困難な蕩減の峠を平気で越え、神様に侍り続け、神様を慰労しながら峠を越えなければ平和の地上天国はできません。その代表者、公的な人は孤独な人です。ある一人の人が立ち上がって「文先生はこのようなことをされ……」と一言言えば、先生は痛哭する心情をもっています。年を取って涙が渇れる七十のおじいさんなのに、誰もその悲しみの涙が流れるのを止められない寂しさをもっています。そのような父母がいるということを忘れてはなりません。

皆さん、考えてみてください。私は監獄生活をたくさんしました。五年以上監獄生活をしましたが、雨が降って軒先から落ちる水滴が岩に穴を開けるということを思い、「私の愛の涙の粒が神様の胸の中にしこりとなった恨の岩を貫通することができるならば、そうできれば……」と思いながら、その水滴を見て痛哭した事情が皆さんには分からないことでしょう。流れていく水を見て、この水の流れが神様をお迎えして神様が来られて沐浴することのできる澄んだ水の流れとなったらどれほど良いでしょうか。そのような愛の巣、安息所を、人間として神様に準備してさしあげることのできる子となったらどれほど良いでしょうか。そのような心情の深い世界を皆さんが体験できないとすれば、神様と関係がないのです。

憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。息が詰まり、この五感すべてが一度に詰まって痛哭したことがどれほどたくさんあったことでしょうか。皆さんに会うためではありません。人類の主権者たちを屈服させるためです。どういうことか分かりますか。こん棒や銃剣によってではありません。愛の血統を通して彼らを感化して自然屈服させなければ、天地に神様の願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。

この世で生きるのにどれほど困難なことが多いでしょうか。今日歩いていてどうなるか分かりません。その恐怖の環境から抜け出すことができないかわいそうな人生です。この恐怖の環境と混乱の中に立っている私に教えてくれる師は誰でしょうか。師がいません。ここに立っている私はそのような問題のゆえに痛哭し、身もだえしました。神様がいるならば、なぜ師の役目を果たせないのでしょうか。知ってみれば神様は愛を原則とした師だったのです。これを知らずに神様を恨みました。愛を中心とした師なのです。

自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を歴史上見かけても、知っていてもだまされたふりをしてやりました。なぜだまされてやるのでしょうか。神様が今までそのようにしてだまされてきました。裏切り、背を向ける姿を見るたびにあきれ驚いて「あいつ、雷を落として首を、日本刀があったら一気に首を落としてやりたい」という憤慨と悔しい思いが爆発するのですが、彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。かわいそうな神様にすがって許そうという心をもってきたところ、そのたびに節ができます。分かりますか。統一教会の一つの節ができるのです。竹に節があるように、節ができるのです。そうして家庭的節目、氏族的節目、民族的節目を刻んでいくのです。

歴史的師が生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流し去ってしまってはならないのです。私の心の深い愛を大切にしまい、あの世に行って出会ったら首を抱いて「あなたが悲しかった事情をみな知り、その度数に合わせて生きようとしましたが、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙をのんで痛哭する心が先立つときは、神様にすがって痛哭するとしても神様も共に泣きながらかき抱いてくださるのです。そのような日をもてずしては解放できないと考えている人です。妻の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばず、父母の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばないのです。それを知っているので、解放のためによそ見も寄り道もできずに歩んできたのです。

また会うときまで昼夜を分かたず、御飯が食べたければ先生のことを思い、御飯を食べないでみ旨のために先生がしていることをしなければならず、眠たくなったら眠らない先生を思ってみ旨のために闘っていかなければなりません。非難を受けながらも弁解せずに忍耐してきた師を考えなければなりません。それ以上の心をもち、あすの勝利に対する欲望をもって、自然屈服する怨讐の群れを見るために自らの実績をもって行こうという心をもたなければなりません。そうした努力をしてこそ、皆さんが生きる道があり、この民族が生きることができるのです。

ある時には、死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのようなときに統一教会の教主であるこの私が、どうして涙なしに夜を明かすことができるでしょうか。哀れにも私という人を知らなかったならば、そんなことにはならなかったのに。国境を越えに越え、一度も会ったこともない師に従って歩み、最後に東方の韓国に向かって「私は行きます」と両手を合わせて祈り、最後の道を行く彼らを、かき抱いてあげることもできず、助けてあげることができない心情を皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。

私は統一教会の教主になろうとは夢にも思いませんでした。今もそうです。私は教主という観念をもっていません。平民なのです。きょうも洋服を着ないでネクタイも結びませんでした。一つでも不足な装いをしてこそ気持ちが楽なのです。なぜでしょうか。統一教会の食口たちは全世界に広まって、この時間にも雨降る軒下でぬれた服を着て先生を慕いながら、「先生が御安泰であられるように」と敬拝していることを知っているからです。福を祈っている立場を蹂躙してはなりません。それで目さえ開けば眠れずに、このような罪人のような教主の生活をしているのです。それゆえに統一教会の教会員たちが文総裁を無視できないのです。

天聖教 -真の神様-